2~3週間ほど前、日本に住む同級生と久々に話をした。
ふと、mayoの当てはまらないパズルピースの記事を思い出した。去年日本で読んだ時にはしっくり来なかったけれど、今ならとてもしっくりくる。日々の生活に関しては一年の留学経験があるからか、冬の帰国時にも特には「しっくりこなさ」を感じることはなかった。だが、考え方は本当に、しっくりこないことだらけなのだ。
「リベラル」なグリネルの思想は、むしろ慣れ親しんで育ってきたので、高校時代に私の言っていたこととたいして変わりはないように思う(mayoの記事を参考にして頂きたい)。このグリネルに根付く思想は、いかにも日本では正義の味方が言ってくれそうな考え方ばかりだ。「格差をなくそう」「平等」「女性の人権」「LGBTQ+の人権」等々。これらを薄っぺらな言葉で終わらせない議論で深め固めていく。けれども、もともとグリネルカレッジの共有する思想に近いものを持っていたからか、逆にそれを疑うことも多くなった。幸いなことに、その「グリネルらしい」思想を疑うような議論ができる土壌があるのも、グリネルカレッジのようだ。
例えば、「環境を守ろう」
これはもはや日本では当たり前の正義になりつつある思想だ。けれども、グリネルの生物の授業ではその思想までも疑う。地球温暖化なんてでっちあげだ、などという様なサイエンスを無視した反論ではない(もちろんこの考え方でも、なぜその結論に至ったのかを知ろうとすることは重要だと思うが)。人間はなぜ環境を守ろうとするのか、そんな議論が行われた。
考えてみてほしい。捕鯨の禁止運動、パンダの保護、なぜ人間はある特定の種の保護に熱心になるのだろう。他にも絶滅しそうな種はたくさんいるのに。
かわいいから?頭がいいから?
実はフェミニストの活動のシンボルとして使われ、フェミニスト運動の意味合いは消えつつ保護運動だけ広まった動物もあるらしい(くじら、ボノボなど)。
もっと身近な例で考えてみよう。猫を殺したら狂人扱いされるけれど、ハエを殺しても特になにも言われはしないだろう。猫の絶滅は認めなくてもハエの絶滅はまぁありかな、と思う人も少なくないのではないか。
もしかしたら人間は、単に自分たちの気に入った、もしくは有利に使用できる生物を守りたいだけなのではないだろうか。そんな人間の我が儘で、どの生物を守り、絶滅に目をつぶるか、決めてしまっていいのか?
範囲を広げて考えると、いわゆる環境を守りたいというのも、「人間が心地よい環境」「人間が種として存続し続けられる環境」を守りたいだけなのではないか。
それで何が悪いのか、という意見ももちろんあった。人間以外の動物が自分の種の保存以外に他の種の存続を考えているわけでもあるまいし、全種の保存なんてそもそも不可能だし‥‥そうかもしれない。ただ、ここで気づかされるのは、いわゆる「当たり前の正義」も実は誰かのエゴに過ぎないのかもしれないということ。そこまで考えた上で、ではこれから人間はどうしていくの?の疑問にやっと答えられる気がする。
だいぶ長い例になってしまった。
話を戻すと、この様な議論を経た後に日本のキラキラした同級生と話すと、どうすればいいのかわからなくなってしまうのだ。「環境保護の活動をしていてね‥」「格差をなくすにはね‥」話の途中で、あっ、うーん、でも、と止めてしまいたくなるのだが、どうせ面倒臭いと思われてしまうのではないか、という気持ちから最近は聞き手に回りがちだ。タイミングを見計らうのだが、なかなか難しい。
思想のパズルピースが当てはまらない、というよりは、どこまで当たり前を、正義を疑っていいのかの感覚のパズルピースの形が変わってしまった。
私は日常的に、先ほどの例の様な少々面倒臭いところまで考えてしまう。特にグリネルという環境が、幸か不幸かその面倒臭い深さまでの議論をさせてくれる。
当てはまらないままでいいのか。別のパズルの一部になるのか。はたまた新しいパズルを作るのか。
もうちょっと様子を見てみよう。