5/22に成田国際空港で税関を通るときに、
「日本語で大丈夫ですか?」
と聞かれた。
そんなことを聞かれたのは初めてだった。どう考えても顔は日本人だし、日本の紺色のパスポートを持っている。その時、私は気付いた。
もう日本でいう「純ジャパ」には見えないんだ、って。
もともと私は帰国子女だから、「純ジャパ」だったことなんてなかったが、イギリスにいたのは2年だったからグリネルに行く前は雰囲気は完全に「純ジャパ」だった。
*「純ジャパ」とはそもそも何なのかっていうのは、また別の話だけど。
でも、1年ぶりにグリネルから帰国した私は日本の社会にすんなりと収まりきらなくなっていた。
その日私は電車で帰った。成田から自分の最寄駅までの旅で、いろいろ自分は日本に当てはまっていないのに気付いた。
まず、見た目から。
日本の人は全体的に小さい。アメリカの食べ物を容赦なく食べていた私は、日本人よりも縦にも横にも大きくて、目立った。しかも明るいブルーのAdidasのスウェットを着ていて、電車の中で一番カラフルな人だった。明るいといえば、アメリカではそこまで茶色でもなく感じた私の茶髪は日本では金髪のように目立っていた。
考え方も完全に変わっていた。
グリネルはリベラルで、社会正義感が強い。男女平等とかgender identityとかsexual identityに関してはとてもオープン。日本とは大違い。グリネルにいるときは、私は自分はそこまでグリネルのリベラル感に染められていないと思っていた。が、帰りの電車のなかの脱毛の広告に「Girl power、女子にちからを。」と書いてあって、それにイライラしている自分は「完全にグリネリアンになってる」と思った。女子は脱毛して頭の上以外には髪の毛は少しもないのが理想という概念自体が「Girl power」でもなんでもない。むしろ、女子がhairlessであるべきというのはsocial constructだ、なんで毛を剃らなきゃいけないのか。こういうことをずっと考えている自分がいた。
こういう風に考えるようになったのは良いことで、視野が広がったと思える。
もう一ついえば、私は良くも悪くもフレンドリーになっていた。コンビニでお釣りを渡されたら、笑顔で「ありがとうございます!」とか言うようになっていたし、ATMでお金をおろすときに列でいっしょに待っていたおじさんに自分から声をかけていらない世間話しをはじめてしまった。
あとは、図々しさを日本に持って帰ってきた。
たとえば、電車の席が空いたときに近くにお年寄りがいたのに、もう少しで座ろうとしてしまった。お年寄りに電車の席を譲るという概念を完全に忘れていた。
あとは、列で待つとかそういうことが努力しないとできなくなっていたり、飛行場のATMが壊れたときの自分の文句の言い方がはっきりしていて、自信満々だった。
アメリカでははっきりものを言ったり、少し図々しくても自分が欲しいものはとっていかないと通用しない。日本人はアメリカでは考えが甘いとか生ぬるいと言われがち。だが、日本の中では、そういう控えめな感じが成り立つし、すこし控えめな性格は生きて行くのに大切だと思う。
なにもすんなり入ってこない。
他には、日本のサイズ感(すべてがアメリカに比べて小さい)とかきちんとしているところとかが新鮮で、帰り道はちょっと日本を観光している外国人気分で楽しかった。
楽しかったけど、もう自分は日本の色々なことがすんなりと受け入れられなくなっていた。
パズルをしていると、見た目は似ているけど、いざパズルにあてはめようとすると入らないパズルピースがある。頑張って押したら入るものの、そこにははまらない、間違っている。
グリネルから帰ってきた私は見た目は日本人でも日本の社会にははまらないパズルピースになっていた。
まよ