こんにちは。Kwameです。
今週のテーマは「グリネルに来て驚いたこと」ということで、グリネルでの授業の中で少し考えたことを書こうと思います。
グリネル最初の学期もそろそろ終了です。僕のセミナー形式の授業の一つ、「”Neither from here nor from there” Immigrant Identity(移民のアイデンティティ形成)」では、先日ファイナル・プレゼンテーションがありました。
このプレゼンテーションはクラスの12人の生徒が、それぞれ移民に関する自分の好きなトピックについて調査して発表、皆で議論するみたいな活動でした。僕は、日系アメリカ人の1世から3世にかけての帰属意識と米国への文化順応について、第二次世界大戦中の強制収容所生活など交えながら発表しました。
20分ほどのプレゼンの後は、なにか写真や動画などを一つ提示してほかの生徒に問題提起をし、ディスカッションを自ら導くという時間がありました。僕は第二次世界大戦中のカリフォルニアでの日本人差別を写した写真を提示して「こうした差別が当時の日系人のアイデンティティ形成にどういう影響を及ぼしたと思うか。」などの質問をし、ディスカッションを行いました。(日本語に訳すとなんかすごそうですが大したことない内容です。)
僕のプレゼンは並でしたが、一人僕と同じく日系アメリカ人2世にフォーカスした研究をした生徒がいて、彼の発表には少し感銘を受けました。高校のころプレゼンテーションやディベートの授業があったと言っていて慣れているのもあると思いますが、プレゼンテーションでの写真やスライドの提示の仕方、話し方、資料の分析や批判などが非常に効果的ですごいなぁと思いました。
でも、じゃあ何がこんなに僕と違うんだろうと考えた時に、この能力って日本で評価されてたっけ?と、ふと思いました。
その彼は、プレゼンもディスカッションもうまくて、多分この授業もいい成績をとると思いますが、もし彼が日本の高校ないし大学にいたらいい成績とれるとは限らないよな、と思いました。日本の高校で、プレゼンとか授業への貢献度で成績が決まることなんてありませんでしたし、いい成績をとるには教科書を覚えたり、理数系だったら解き方を身につけたりする必要がありました。彼がプレゼンがうまいからと言ってそれらに長けているかはわかりません。
逆に僕は特にプレゼンなどの経験はないので、グリネルでは、だいぶほかの生徒とのレベルの差を感じました。別に日本の教育を批判するのではなく、純粋に日本とアメリカでは評価される能力が違い、したがって優等生などの定義も変わってきてしまうのは面白いし、逆に評価されない才能が押しつぶされてしまうのは怖いなと感じました。
またこの授業では現在、ファイナル・リサーチ・ペーパーも書いていますが、なんとなく早稲田国際教養にいた時と比べて、グリネルの教育環境の手厚さを感じています。
早稲田にいたころAmerican Politicsという授業をとっていて、そちらでも学期の最後に英語でリサーチ・ペーパーを書きました。しかし添削をしてもらおうと思っても、なにせ約100人の生徒がそのクラスをとっていましたから、ライティング・センターはあっても、直接教授から指導をもらうことはありませんでした。
それに対しグリネルでは、予約をすれば簡単に教授が1:1で直接エッセイを指導してくれます。1文ずつ丁寧に見てくれ、提出までにやろうと思えば何回でも見てもらえます。自分のエッセイの悪い点やどうしたらよくなるかなどのアドバイスを細かくしてくれます。やはり教授との距離が近いというのは、人数が少ない大学の利点ですし、学問やスキルを深めるには非常に重要な点だと思います。
そんなグリネルの授業の中でのちょっとした気づきと驚きでした。
Kwame