グリネルは、天国ではない。
刺激的で、目を見開くような発見で毎日あふれていて、こんな経験ができて本当に恵まれていると思う。
自分の育ってきた環境では経験できないような体験、考え方に触れられて、言動、考え方、価値観、優先順位、を日々考えさせられている。
こんなに小さくて、孤立していて、1つの泡の中に存在している場所でこうなのだから、世界に出たらどんな可能性が待ち受けているのだろう、と希望を持ったりもする。
この場所にも、自分が一番かわいい人間たちが作り上げた社会は存在するのだ。今まで伏し目で流してきたその事実が、目の前に立ちはだかっている。
コロナ時期に一度日本にも話題はやってきたので多少馴染みは出てきたであろう、黒人差別に関する運動がこのキャンパスでは熱を帯びようとしている。
この事実を広めようと話をしたり、いろいろなプラットフォームで認知を、事実の周知を促そうとしている生徒もいる。
ただ、現実はそういう活動であふれている訳ではない。
むしろ、この事実を知って皿洗い中に思い出した、もう直ぐなくなりそうなトイレットペーパーのストックを買わなきゃいけないこと、中学時代同じクラスだった子がどこどこの居酒屋にいて美味しい日本酒を飲んでいること、何県のどこの家庭のポメラニアンが面白い仮装をしている朝のニュース番組のコーナー、今日そこそこな満員電車で化粧をしているOLを見かけたことと同じように同じ重さで、大して気にも止めないで日常を過ごしていく。
学校も然りだ。当日中に「お偉いさん」たちから全校宛にメールが一斉送信された。内容はこうだ:事実を延べ、こんなこと許してはならない、私たちは憤りを感じている、今こそコミュニティとして全員での結束を強めるべき、犯人の特定に尽力し成功した場合は相当の処罰を与える、学校に存在するリソースつまり相談所やカウンセラーなどを並べた。
思い出して欲しいのはこの学校は結局、生徒は当然、職員も大多数が白人の環境なのだ。
このメールの内容は、日本でもありそうな返答。
考えてみると、白人の職員に黒人の生徒たちが受けている扱いは到底理解どころか想像もできないだろうに。
例えば、日本にいる人にこの事実話してみるとする。
私が想像する一般的な回答は「可哀想」だ。
赤の他人からの目線。
だから、今日、事件の3日後の木曜日の授業後、中間試験期間真っ只中にBSU(Black Student Union of Grinnell、黒人生徒連合)は学校に向けての演説会を主宰しなければならないハメになったのだろう。
この事件の当事者たちが、声を上げて、
自分の体験やトラウマ、気持ちを言葉で叫んで、涙を流して、言葉を探して、
時間と心のエネルギーを浪費してまで、
それでやっと非当事者たち。赤の他人たち。に声を届けられているのだ。
彼らは語った。近所のコンビニに向かって歩いているときに隣を走り去る車両にクラクションを鳴らされ、差別的な言葉を浴びせられたこと。レストランの店員に差別的な言葉を浴びせられたこと。
これが起きたときに彼らは言葉が出ないこと。驚きやショックが主な理由なのは当然、何を言って良いかわからない、そして恐怖が心を襲うのだ。
自分はただ周りの人間のように道を歩いていただけ。公道を。それなのに、攻撃的な言葉を一方的に浴びせられる。見知らぬ他人に。
これを経験した上で彼らは周りは無責任に「安全だ、安全だ」と言われているコミュニティで毎日、周りの人と同じレベルの課題量、作業量、期待を負わされて生きているのだ。「グリネリアン」という肩書きを、ここでこなしているのだ。
人には人の悩みがあるが、「普通の人」と同じように生きられないことで悩まなければならない人がいる社会が存在している事実があるのだ。教科書で散々読んだこと。それは今、起きている。
この演説会にはたくさんの生徒たち、スタッフや教授たちが参加していた。私も含め。たくさんの白人、黒人以外の人種で溢れていた。45分ほどの演説、彼らの声を聞いていた。質問を投げかけた。
正直私には辛い時間だった。最初に述べたようにグリネルは天国じゃないから。些細なことだと、ほとんどの生徒が何も考えず「当たり前」にできる:家族と同じ時間帯で過ごすこと、慣れ親しんだ味があること、言葉に詰まらずに完全文で話すこと、言いたいことの100%が伝わること、それができないこと。そのような事実と付き合いながら授業では周りと同等に、少なくとも「見える」、パフォーマンスをしなければならない。その事実を、ガッと両頬を掴まれ顔面に突きつけられた気分だった。
そんなんじゃ嫌いになる環境ではない。
なんなら「不自由」からは目を背け、自分自身を催眠にかける力がついた。自分は周りと同じことを当然にするんだ、って。
道を歩いてクラクションをふと鳴らされたら、「またか、」とスルーして夕飯の献立を考えながらスーパーに向かう足を止めないのだ。
そんなことは、間違っているんだよ。目を覚ませよ。
そう言われた時間だった。
それは、私たち自身が自分を潜在的に洗脳しているいわゆる「白人主義」の視点じゃないか。戦え。と。
観客というよりは、彼らの演説に共感し、諦めない勇気をもらい、信念の強さを尊敬した。連日の脅迫とも言える行為を乗り越え、奨学金や食費に充てるお金をもらうためにシフトに時間通りに参加し、音楽と人類の進化についてのエッセイを書いて、教科書3章分の中間試験の勉強をすることを期待されている彼らに。
この文章が、いや最初が、スラスラと読み飛ばされている時点でおかしくはないのか。
観客は真剣に聞いていた。演説ごとに拍手を送っていた。
質問では積極的に「どう力になれるか」ということを聞いていた。
ところで、この演説のために今日のGrinnell Singersのリハーサルは1時間遅れた。
今年から出欠を取られるようになった合唱練習。強制除籍とか言ってたような…。
50分ほどで演説会の全行程が終了したので、気持ちが晴れないまま向かった。
当然、人はちらほら居ない。半分ちょっと居たくらいだろう。
指導者が一言、
「さあ、気分を変えて、歌っていこう!」
発生練習が始まる。
わざと面白い発音で音階を辿り、みんなは歌い出す。
私は声が出ない。突っ立っている。
周りは体を使って、所々笑いながら歌っている。
ああ。彼らの演説はまた見世物だったのか。
「犠牲者が居て、支持者が真剣に話を聞いて寄り添っている」構図に満足したのか。あんなに言ってたのに。インスタの投稿も何もいらないから、何かアクションを起こせよって。
皮肉だよなぁ。この事件が起こって、中間試験があって、その上で(自分で選んだとはいえ)時間とエネルギーを消費する合唱練習に参加してるのって。やっぱり彼らのこの事件のトラウマや日々向き合う恐怖やストレスは所詮他人事で、自分のエネルギーや心のキャパは全然奪われていないんだ。
しかも歌って楽しいときに歌うものじゃん?私たちのパフォーマンスが良いのって気持ちが上がっていて、集中力が高まっているからじゃん?
なんで今、音楽を平気で作ろうとしてるの?
今日の練習に参加した、白人たちは元気に歌いにきたんだ。POC(People of Color、有色人種)は私含め6人。ダメだ、帰ろう。
自分がなぜこれを書いているのか、何を伝えたいのか、読者に何を感じて、考えて欲しいのかわかっていない。
文体もバラバラだし、添削もろくにできていないし、自分の考えもまとまっていない。情報の消化もできていない。
ただ、繰り返し言葉をなぞってもらえることを願う。
自己啓発、言葉の伝達、情報の共有、情報収集、様々な手段があるだろう。
形だけに、言葉だけに留まってしまうのは悲しくて、恥ずかしい。
諦めること、他人に期待しないことをすると人生は楽になる(ように錯覚させられている?!)。
あなたは今、どの視点で、どのような人たちの目線で周りのことを見ているのですか。