かっこいいことはかっこよくない

やっぱり体と心と頭の話をしよう。

今学期は、今までのグリネルでの生活とはだいぶ違ったものになった。生活の中心は、歌、ギター、演劇、アドミッションオフィスでの仕事、学期後半から始めた陸上部の練習と試合だ。社会学専攻だけども、リーディングをやらないことも多かった。ライティングにも今までほどの時間と思考を割くことをしなかった。教授のせいだけにしては申し訳ないが、今学期の社会学の教授は二人とも特に面白くなく、というかむしろつまらなく、もっとも、アカデミックの勉強という行為の限界、単調さ、傲慢さに目を向け始めてしまったからかもしれない。

アカデミックな見地を深めていくことで、僕は自分がただ傲慢になっていっている気がして、嫌気がさしてしまった。勉強をするということは、新しい知識や物の見方を身につけるということだが、それに心と体が伴ってないとただの頭でっかちになる。例えば社会学の授業で、フーコーのパノプティコンという、知識と権力と自制の関係性について学んだ。そういうセオリーがあるのか、なんか正しそうだな、いやちょっとここが間違ってるんじゃないか、でもなんかかっこいいな。授業を出て、お昼ご飯を食べている時に、友達とグリネルの人間関係のダイナミクスについておしゃべりしている時に、このパノプティコンを引用する。「あ、それフーコーのパノプティコン的な考え方でしょ。(あれもしかして私知的な発言しちゃった?)」

「いやいや、カッコつけるな」と僕は言いたい。パノプティコンという言葉の意味を理解している人がどれくらいいると思ってるんだ、お前は。相手がそのコンセプトを知らないことを知っていて、どうしてどの単語を使うんだ。しかもパノプティコンはお前が考えたことでも、感じたことでもなく、フーコーが考えたことだ。いや、フーコーの視点と自分の経験を照らし合わせた時に合致していると思っただって?そんなものは都合のいいように後付けして、合致しているところだけを切り取ってみているのだ。他人が肌で、耳で、鼻で感じて考えた結果出したに、便乗しているだけで、偉そうにするな。その人が「パノプティコン」というボキャブラリーを学んで得たものは、その言葉を知らない人に対して「この人は自分より頭いい」という嘘を思い込ませる権力だ。教育はSocioeconomic status (社会的地位)の高い人にしかアクセスできない、と耳にタコができるほど言っているグリネル生が、その社会的格差を、知識という嘘を使ってさらに広げる役割を果たしているように思える。

こういう意味で、少なくとも大学学部レベルのアカデミアには心と体が追いついておらず、頭だけが先へ先へ進んでただ傲慢に高級なボキャブラリーを習得しているようにしか見えなくなってきた。頭だけ働かせて、「理解できた」と勘違いしているからそう傲慢になる。だからもっと自分の五感で感じたことから学んだ方がいいんじゃないか。そしたらもっと本当はみんな「ちゃんとダサくて」でもだからこそ人間的になれると、僕はそう思う。

演劇は、 典型的なアカデミックな作業—本を読んで、ディスカッションをして、ペーパーを書く—とは違っている。パフォーマンス中には、オーディエンスとの奇妙な距離感があり、緊張感がある。アカデミックなペーパーより、もっと細かい設定にまで細心の注意を払い、想像力をフル活動させる。そういう意味で、よりリアルに近くて、より本質的な気がする。

もちろん演劇だって、本当は想像の域を超えないのかもしれない。人を殺した青年を演じる時も、僕はまだ本当に人を殺したことはない。殺すとはどういうことなのか。刃物を持ってどれくらい力を入れたら、どれくらいの赤黒い液体が飛び散って、どんな臭いがして、その後どうやって自分のシャツを洗ったか。殺した相手はどんな風に叫び、怯え、泣きわめいたのだろうか。「殺す」行為が終わった時には、おそらくまだ生きていたけど、それから傷が癒えることなく死んでいったのだろうか。その妙な時間はどれくらい続いたのだろうか。すべて五感の記憶を想像で構築し、そこに心をのせていくしかない。

でもそこには、人前で演技する不安や緊張や、役に対する思い入れや練習中の記憶がすべてぎっしり詰まっている。それは頭だけでカッコよくスマートに考えたものではなくて、泥臭く体で感じたものを心に乗せて思い切りぶつけるといった「ダサさ」がある。僕にはその「ダサさ」こそ現実的で、かっこいいものに見える。

演劇と同じものをまた、僕は陸上競技にも感じている。自分の理想のランニングフォームを日々頭で研究しながら、練習中にそれを体で実践してみて、そのズレを修正していく作業が永遠に続く。試合などといったものはあるが、それは常に「練習」試合であり、今日よりも明日0.01秒でも速く走る為の課題を発見する場所でしかない。速く走ることなど正直どうでも良いことだ。特に、車や飛行機などといった乗り物があるのだから、速く走れると言っても人間の移動手段としては遅い部類にしかならないのだ。毎日飛行機より速く走れるように練習しているわけでもなく、陸上部の練習に真面目に取り組むことなど「ダサい」のだ。しかし、体幹トレーニングやランニングなど肉体的に「気持ち良い」を明らかに通り越している行為を嫌がる自分の心と戦い、速く走ることに意味もなくコミットするというのが陸上競技なのではないか。演劇と似たように、僕はその意味もない全力コミットに何か魅力を感じてしまう。

もう直ぐ3年生が終わる。夏の予定も定まっていない。でも1年後、グリネルでの生活が終わって、とうとう社会の構造(とりあえず大学までは行くでしょ、ってやつ)にただただしがみついていれば良い時間が終わる時、「ちゃんとダサい」人間でありたい、という長期的な目標が見えてきた気もする。

コメント

  1. より:

    今頑張る事や頑張りたいことに対しての大きな価値はすぐには分からないかもしれない。でも今の頑張るダサい姿を見る10年後の自分は自分に誇りをもつのではないかな。そうなるといいですね。