旅行する意味

昨日まで高校の同期2人と4泊5日で台湾旅行に行ってきた。台湾で見かけたたくさんの観光客や自分の友人たちを観察していて、旅行の意味とはなんなのだろうと何度も考えさせられた。グーグル検索すればすぐに出てくる料理を食べ、観光地に行き写真を撮り、綺麗なホテルに泊まれればそれで満足で良いのだろうか。旅行はある種留学みたいなもので、自分がそれまで知らなかったこと、考えたこともなかったことに触れて肌で、心で感じるものを吸収していくことが旅行に意味付けをしてくれるのではないだろうか。

最近のたいていの旅行は「写真を撮るための移動」でしかないように見える。台湾には「千と千尋の神隠し」のモデルになって九份という町がある。僕らもこの旅行の定番の町を訪れてみたのだが、周りの観光客は夕方になって、町の提灯が灯りをともすと必死に何枚も写真を撮って、撮り終わると速攻で帰るのである。多分彼らが撮った写真と同じクオリティか、それ以上の質の写真はグーグルで「九份 夜景」と検索すればすぐに出てくるだろう。このように、ネットに転がっているものと同じ/似た写真を撮ることそのものだけが旅行の目的になっている気がする。

写真を撮ることそのものは素晴らしいことだと思う。ここで批判しているのは、写真を撮って満足してそれ以上頭を働かせていないということだ。九份を本当に堪能するのであれば、九份の歴史を事前に調べてくるとか、自分の出身地との関わりに興味を持って現地の人に質問してみるとか、旅行に深みを持たせることはできないものか、と思ってしまうのである。

旅行の意味は旅先でしかできない経験をし、そこから肌で、心で感じることを吸収していくことにあるのではないだろうか。旅先でしかできない経験、というのは例えば旅先の現地の人たちと少し会話をしてみるとか、旅行中にその国や地域の言語を勉強して挨拶してみるとか、そういうことだ。実際僕も、事前に台湾の歴史のまとめを読んでいったし、今回の旅の間にグーグル翻訳とその他ネット記事をフル活用し、中国語を勉強して現地の人たちとなるべく彼らの言葉でコミュニケーションを図ろうとしてみた。「〇〇駅まで行きたいのです」とか「バス代はいくらですか」くらいはこちらから言って理解してもらうことができたし、「どこに行きたいの」「15元だよ」「ありがとう」くらいは聞き取ることができた。旅行前何も知らなかった言語でボディランゲージをフル活用し、そこに少しの文法と語彙を添えるだけで現地の人に意思を伝え、共感し、相手を理解することができたのだ。このちっぽけなコミュニケーションに対する達成感や感動こそが、旅先でしか得られない経験や感覚なのではないだろうか。

旅行ツアーのパッケージに頼って、旅行会社に敷かれたスケジュールに縛られて移動したり、通訳に頼って「無駄に」スムーズにレストランで注文したりや駅で切符購入するのは楽だが、何も面白くない。それは自分の頭で考えたの工夫を通した行動が伴わないからだ。何も知らない地にせっかく足を踏み入れたのだから、自分で思考力・想像力・コミュニケーション力をフル活動させて、旅行先でしか経験できない奇妙な経験を心でビシビシと感じていく旅行の方が本質的ではないかと僕は思う。でなければグーグルアースを開いて、世界中無料で時間もかけずにいつでも旅すれば良いのではないだろうか。