ベターとはなにか。-1-

ぐりねるすをいつも読んでくださっているみなさまこんにちは。前回の冬休みにシリーズ物を企画したのですが、面白い記事コンテンツがうまく思い浮かばず断念してしまいました。が、今回は最低2記事は投稿できるだろうシリーズ物を書きます!内容は、春学期を終えてすぐに旅を一ヶ月ほどいままでしてきて感じたことを言葉にまとめておこうという試みです。まずは第一回、旅が始まる前に書いておいたメモ帳の引用になります。社会の “発達” による人々の傲慢化とそこに生きる人たちのパフォーマンス的な言動に疲れてしまった僕の落書きをご覧ください。

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これからなんの生産性もない旅を二ヶ月ちょっとしようと思う。大学卒業まで1年にして、なんだか先が全く見えない。いや、来学期はニューヨークで演劇を学ぶし、最終学期のスケジュールももう大体決まっている。でもそのあとが本当に1ミリも想像がついていない。だからその想像のコマを進めるために、僕がいつも考えていることをまた1つシェアしたいと思う。

what matters? (意味のあることとは何か) 人生に意味ってあるんだろうか、ないんだろうか。あるなら、人生の中で何に意味があるんだろうか。

きっと人生にそもそもの意味はない、というのが僕のスタンスだ。でも、人間は幸運にも賢く、物事に本来はない意味付けをすることができる。自分の人生で、大事なものはなんですかと自分に問いかけ、その答えを絞り出すことができる。オリンピックで金メダルをとったことがあるような人は、おそらく自分がやってきたスポーツに意味を見出すだろうし、起業して大成功した人は、自分の事業に人生の意義を見出すかもしれない。

人間がモノやヒトに意味を感じられるのは、自分の人生の中で十分にコミットしてきたものに対してだと思う。時間的コミットメント、金銭的コミットメント、感情的コミットメントなどコミットメントにも種類はある。でもおそらくこの中で、人間が生まれた時から手持ちの量が変わっていない、時間的コミットメントが最も重要になりそうだ。人は、死ぬ日-生まれた日の手持ち時間しか持ち合わせていない。昨日チュッパチャプスに使った¥42は、今日バイトで同じ価値を稼ぐことが出来るけど、一昨日友達と喧嘩した約42分間は、もう過ぎ去ってしまい取り戻すことは出来ない。

チュッパチャップス一本食べるのに大体10分くらいかかるとする。この10分は、チュッパチャップスを食べるという経験全体像に対して五感を研ぎ澄ませられる時間だ。チュッパチャップス一本に対しては10分くらいのコミットメントしかしないのだ。一方で、友人とあることがきっかけで42分間喧嘩しても、その友情が完全に途絶えない限り、その人と友達であるという経験をしている時間は常に延長されている。チュッパチャップスより友人の方が、私たちの人生(少なくとも私の人生)にとって大事だと感じる1つの大きな理由は、そういった相対的な時間のコミットメントの差にあるのではないだろうか。また、やってみたら大体なんでも(特に学業)平均以上出来てしまう”優秀な”人たちに限って、やりたいことが見つからないのも、コミットメントが分散されすぎているからのような気がする。幸運にも、残念ながら、僕もそのうちの1人なのだろう。

近頃は、インターネットやスマホ、その他のテクノロジーの急成長によって、数多くのものがコモディティ化されてしまっているという議論があるが、僕がここで問題だと思うのはコモディティ化そのものではなく、物事に費やす時間の短縮化、低コミットメント化だ。オンラインチャットの出現によって、家族や友人とのコミュニケーションはいいね!やニコニコマークを押すだけでワンクリックの関係になり、デートアプリの発達で愛やロマンス、肉体的親密さまで、まるでピザデリバリーのように手に入れることも可能になった。いいね!のワンクリックで伝えた感情を、アプリなしの世界で口頭で伝えるのには、もっと時間がかかる。その「いいね!」話を聞くために、まずは話し手に会いに行かなければ行けないし、相手が話しているときに自分の時間を割いて耳を傾けなければいけない。時間のコミットメントといっても、長さだけではなく、このように制約に従うコミットメントもあるのだ。また、恋人を見つけるためには、相手のことを考えて緊張したり、悩んだり、デートのシチュエーションを考えたりして、そのあと告白してようやく手に入れるものだったのに、アプリのおかげで、それはほとんどワンクリックになった。こうして、テクノロジーの発達のおかげで限られた時間で出来ることの数は飛躍的に増えたが、同時に低コミットメント化によって1つ1つのことに、自らの人生の中で大きな意味付けをすることが難しくなった。

しかし、反対に、コミットメントを意識的に上げることで意味を創り出すことができる。別になにか大事な話があるわけでもないけど、大切にしたい友人に電話をかけてみたり、直接久々に会いにいったりすることは出来る。そうやって、無駄に見えることをわざとすることで、意味を構築することができる。

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半分ぐりねりす向けに、半分自分の日記として記した文章はここで終わっています。旅の前の僕は、アメリカや日本といった生活のレベルが「高い」場所での生活を良しとする人々の傲慢さに呆れ、さらにそのレベルの高さのせいで失われたある種の人間らしさに悲しみを覚えました。そんなこんなで突然南アフリカの、温かいシャワーもまともに出ず、トイレを流すことも出来ず、トカゲの入退出が激しい部屋で寝るような生活レベルの「低い」地に繰り出したのです。