即興コメディーと純粋理性批判

「お前のキャラは何だい?」
「生徒を叱り続けるドSの教師かな。」
「そのドSさをどう表現するんだ?ドS教師の性格と論理を貫くんだぞ。」
「体罰で片目が見えなくなっても、もう片方が使えるだろ、とか言ったり?」
「それヤバいな(笑) じゃジェスチャー付けてやってみて。」

これはグリネルでの会話ではなく、僕が先週参加したImprov Conferenceのレッスンでの一幕です。友達に人手不足だからと誘われて最近始めた即興コメディー。これまた奥が深い。

Improvはimprovisationの略で、「即席にやること」という意味です。リハーサルや台本など一切無しで、コントをやるのが即興コメディーです。本番中のセリフとジェスチャー、場面設定だけを頼りにして笑えるコントを作ります。

一年に一回、オハイオ州にあるOberlin Collegeで、このImprov Conferenceは行われます。プロの即興コメディアンからレッスンを受けたり、他大学のグループと話したりして、真剣に笑いを論じました。

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僕の受けたBurn Your Fearという授業の先生が、こんなことを言っていました。

“Improv is the only form of art, in which the process is the product.(即興コメディーは、過程が結果である唯一の芸術だ。)“

あらかじめ準備され完成されたオーケストラや絵画、映画などと違い、Improvはそれを作っていく過程そのものが評価されるという意見です。僕はこれを聞いて、グリネルでの哲学の講義を思い出しました。

18世紀の哲学者ヒュームは、人間の認識の限界を示す懐疑論を打ち立てました。ヒュームは、人間は決して合理的な生き物ではなく、農夫が自分の首を切らずにエサを与え続けると期待しているニワトリのように、心理的習慣から因果関係を推測しているにすぎないと説きました。別の例を挙げれば、毎朝今まで日が昇っていたからといって、明日も日が昇ると考えるのは論理的ではない、ということです。

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「即興」というコンセプトは、ヒュームの懐疑論に一つのアンチテーゼを提示していると僕は感じました。私たちの社会は習慣や蓋然性というものに頼っていると思うからです。いずれ健康に長生きできることを信じてサラダを食べる。いずれコンサートで披露できることを信じてバイオリンを練習する。いずれ良い企業に就職できることを信じて大学へ通う。しかし、明日隕石が地球に墜落しないと断言できるでしょうか。あるいは明日北朝鮮が核実験を行い、米軍の報復により日本が戦争に巻き込まれないと断言できるでしょうか。

もちろん、そんな風にビクビク暮らしていたら気が狂ってしまいます。実際には、有名な哲学者カントが『純粋理性批判』の中で、人間は時間や空間、因果関係などのフィルターを通してでなければ認識できない、とヒュームを論駁してくれています。

それでも、私たちの生活は結果が第一のように思えます。何かしらの成功を収めなければ、過程が評価されることは少ないのではないでしょうか。Improvには、そんな体制に逆らう爽快さがあります。過程が何らかの結果を生むと信じないで、過程そのもので勝負し、過程そのものを楽しむ。手に汗握るアドリブのスリル。

グリネルには、決まった台本から逸れて笑っていられる、ちょっぴり開放的な場所がある。そんな発見なのでした。

コメント

  1. 高校のcox より:

    カントがヒュームを論駁するっていうところがよくわからないのですが(不勉強なので見当違いだったら申し訳ありません)、「一般的な認識や思考はあくまでも経験に基づく帰納的なものにすぎない」というヒュームの意見を「そもそも認識は悟性に基づきカテゴライズする行為であり、いわゆるイデアを認識する純粋理性は存在しない」という認識論によってカントが論駁しているということでしょうか?

    • M先輩 より:

      珍しいユーザーネームですね。戸田でボートでもやられてたんですか?
      ご指摘の通り、カントは人間の認識を再定義することでヒュームに反論しました。

      しかし量子力学など最先端の科学は(不勉強なので見当違いだったら申し訳ありません)、認識のカテゴリーを通さないで物事を観察しようと試みているようにも思えます。シュレーディンガーの猫などの思考実験は、人間の認識を超えた「重なりあった状態」の存在を示唆しているのではないでしょうか。coxさんが理系かは分かりませんが、コメントお待ちしています!