考えた先にある自分

「今学期、あなたは何をしていましたか」と聞かれたら、私は「考えていた」と答える。

ロンドンで都会の大学生活を楽しんだり、英文学や歴史を勉強したり、ミュージカルを見たり、自炊をしたり、ともちろん色々なことをしていたが、その中で一番際立つのはイギリスという場所には関係のない、「考えていた」ということ。

それは、多分今学期一人でいることが多かったからだと思う。

一人でいると、向き合えるのは、自分だけ。ときどき、それが辛かった。他の人といる時は、自分を見つめなくていい。他の人に目を向けて、会話をして、相手の良さや悪さに気づいて、自分と相手の関係性を築くのに必死で、自分がどういう人間かなんて考えている時間はない。その上、結局他の人にとって私のことは他人事で、だからこそかけてくれる言葉は私を甘やかす。たとえそれが嘘や適当な言葉だとわかっていても、自分の未熟さを知っているからこそ、他の人が発した言葉に安心感を覚える。

一人でいる時は、自分には嘘をつけない。だからこそ、単純な解決法がなく、ただただ考えることが多くなった。私は考えれば考えるほど、色々なことを考えてしまって、最初は単純だった問いも、30分後には誰も答えが分からない大きな問いになっている。答えが見つからず、悩みに悩んだ後に、結局頭が痛くなって、とりあえず寝てしまえ、という展開になることも多い。大学で書くレポートも一つの答えを単純に主張できるものではなくなってきて、人間関係も好きと嫌いのどっちかではなくなってきて、単純な答えがある質問しか思いつかなかった昔の自分が羨ましいと思うようにもなった。

イギリスに来て世界の広さを感じたからか、就職が近づいてきたからか、この年齢になると皆が考えることだからか、理由は分からないが、私は今学期、色々なことを考える中で、結局いつも考えることは、生きる意味だった。

生きる意味なんて、今まで生きてきた誰もが考えてきたことで、結局これという答えを出せていないから、私みたいな人が考えても意味がないことぐらいわかっている。

でも、「私」の生きる意味を考えるのは、私が最初で最後だ。他人の生きる意味まで考えてくれるほど暇な人はどこにもいない。だから、自分がやるしかない。

でも、これこそ単純な答えなどないもので、私はきっと生涯悩んで、結局分からないで、死んでいくのだろう。

でも、一つ答えが出た。それは、考えることをやめないことだ。

人間、無視したければいくらでも無視できる。避けたいものがあれば、いくらでも避けられる。現に、私たちは、日々の中で、色々なものを無視して生きている。いつ死んでもおかしくないのに将来のことを考え、本当は間違っているとわかっているものを見て見ぬ振りをし、そして、色々なことを無視したり避けたりしている自分を無視して生きている。

それは生きていく上である程度必要なことだというのもわかる。全てのものに目を配り、生きていたら、前にはなかなか歩いていけない。でも、色々なことを無視して歩いて辿り着いた先には、何があるのだろうか。少なくとも、辿り着いてやっと立ち止まった時には、もう考えることはできないと思う。考え始めたら、自分が歩いてきた道を否定することになるから。

二十歳の私でも、色々なことを考えると、自分は今まで何をしてきたのか、と思う時が多々ある。何があって私はここにいて、これから何をしていって、どこに行きたいのか。それは、一生感じる疑問だと思うし、一生を生きても感じる疑問だと思う。でも、それを常に考えて生きた人生と全く考えないで生きた人生では大きな違いがあると思う。考えて生きていけば、どのような結果になっても、自分はその節々で精一杯考えた上で一歩一歩進んできた。それだけは言えるから。

だから私は、答えがなくても、自分が生きる意味を考えるのには価値があると思う。一人で部屋の白い壁を見つめて、どこにいけばいいのか悩むのに価値があると思う。

だから、私はこれからも、今学期のように、考え続けようと思う。辛くても、嫌になっても、無視しないで生きていく努力はしようと思う。

そして、悩みに悩んで、頭がこんがらがって、意味がわからなくなって、他の人の慰めを欲しがったり、とりあえず寝てしまったりしてしまう私は、まあ、それもそれで、意味のわからない人生を生きている人間っぽい。

まよ