某超有名大学になくてグリネルにあるもの

隣の乗客の顔もまともに確認することなく、重い瞼に身を任せて眠ってしまったみたいだ 。もうあと20分で着陸するらしい。飲み物とおつまみを配りに来たキャビンアテンダントが少し面倒臭そうに早口の英語で言った。

愛想がないしゃべり方をする人が多いものだ。「日本人」の僕は思う。その一方で、もう慣れただろう、そんなに驚くこともない、と「アメリカの大学で2年生を終えた」僕が諭す。

2年ほど前初めてグリネルに来た時は、こんなにアメリカの人たち(主に空港で働く人たちから受けた印象)は無愛想な話し方をするのかと驚くだけだった。空港の荷物を預けるカウンターの従業員は「次のお客様お伺いいたします。」なんて言わない。一度大きく手をこまねいたら、”next” (僕の解釈だと「次の奴はやく来いよ」)と苛立ったように言う。相手が冷たい態度をとるから、僕だって弱々しいアジア人だと舐められないようにつくった無表情で挑んでやった。内心は、英語できちんと荷物を預けるプロセスを完了できるかハラハラしかしていなかったのだけれど。

グリネルと日本を何回か行き来する間に、こういう冷たく見える態度も、ある種アメリカの空港の文化だとわかってきた。今は「日本人」の僕よりも、こうして「アメリカの大学で2年生を終えた」僕が、積極的に空港や飛行機内で起こる現象を当たり前だと認識させてくれる。だからもう、無理に無表情は作っているつもりはない。

こうやって「慣れる」ことが自分の価値基準を変化させる。慣れることで、今まで気になっていたことは気にならなくなり、気にならなかったことが気になるようになる。

最近見えてきた僕にとってのグリネルの良さはここにすごく関係しています。

すでに多くの方がご存知の通り、グリネル大学はとても小規模で田舎中の田舎に存在します。全学年1600人しかいないので、日本の大規模な高校よりも小さいです。そして、デモインやアイオワシティという都会にもならないような都会には車で1時間以上かかります。留学生のほとんどはアメリカで車を持っていませんから、自発的に都会の空気を吸いに行くことはほとんどできません。できるのはせいぜい長期休暇の間だけです。

そしてもう一つよく知られているのがグリネルはリベラル、ということです。

ここは僕もつい今学期の途中まで勘違いしていたくらいで、注意深く議論を扱うべきです。実際のところ、グリネルにはリベラルな人が集まってきているわけではありません。性差別、人種差別、性的マイノリティへの差別的な言動が頻繁に見られます。グリネルにいる人たちがみんな本気でリベラルな価値観を理解して、信じて生活しているなんてことはありません。

一方で、グリネルの社会規範や社会的価値観はリベラルだと言えるでしょう。砕いて言えば、最低でもリベラルな価値・発言・行動が評価される雰囲気だけはあると言って良いと思います。

僕が今学期の途中まで捉えていたように「グリネルはリベラル」をネガティブに考えると、グリネルでは日頃からみんなの良いと言っていること(私たちリベラルだよという雰囲気)と、やっていること(実際に差別的で思考不足な言動があるということ)がよく噛み合わないのです。僕にはこれがとても辛かったです。せっかくこの大学の雰囲気や価値観を気に入って入学したのに、君たちは僕に嘘をついてたのかと。具体的に苛立ちの矛先を向ける人はいないけれど、いい人ぶった集団に騙された気分でした。

では本来どうなのかということを考えてみます。

ここで前の「慣れ」の話になります。

グリネルのリベラルな雰囲気にさらされ続けるとほとんどの人たちが、自分って無意識に差別的な言動を取っていないだろうか、と自問自答する癖がついてきます。そういう発言をしてしまうと、批判の対象になりますから。例えばあまり考えもせずに、「女の子はだいたい将来主婦になるから大学で頑張る責任感が男子より少ないでしょ」なんて言ってしまえば、四方八方から批判を受けるでしょうし、様々な視点からの議論が始まるでしょう。そういう意味で、グリネルのリベラルな雰囲気は、4年間かけて生徒をそういう価値観へ慣れさせ、ある意味で「洗脳」する効果が抜群だと思います。

このリベラルな価値観はグリネルの教育を通して維持されています。特に社会科学分野、人文学系の学問がそれに貢献しています。僕自身も、社会学で学んだ議論を友人との会話に持ち込むことは日常茶飯事です。このように教育が良き証拠資料として、リベラルな価値観を論理的に支えます。

さらにリベラルな雰囲気の洗脳効果を加速させているのが田舎という立地と1600人という規模です。都会の大学であると、都会の社会規範や価値観に飲まれやすく、大学の中でのそれを明確に確立するのが困難になります。例えば東京の大学に行くことを想像してもらうと、大学のコミュニティだけで毎日が成り立っている人はなかなかいないと思います。アルバイトをしたり、その他の課外活動に参加したり、あるいは他大学との交流があったり。自分の大学以外の「雰囲気」に触れなくてはいけない機会が多すぎるのです。しかしグリネルでは、田舎だからこそ大学の目指す理想の価値観を綺麗に1色に染め、生徒に正確に発信することができるのだと思います。

さらに、小規模であることも重要です。1600人しかいないとだいたい毎日見る顔は同じです。Aくんが非論理的で差別的な発言をしてしまったら、その週末までにはだいたいAくんの周りの人はその話を耳にして、怪訝な顔をしているでしょう。そういう意味で生徒間の相互的な監視効果があります。田舎であることをうまく利用して出来上がった一色の価値観を生徒間で協力的に「慣れ」させ維持、発展させる構造をグリネルはうまく創り出しているように思えます。

グリネルのみならず、多くのアメリカのリベラルアーツカレッジが田舎に位置しているのはこういう理由からではないでしょうか。新しい価値観を生み出し形成させるためには、世間との隔離がある程度必要ということでしょう。

現実的に、もちろん超田舎の大学に4年間行くことは、都会出身の方にすれば簡単なことではありません。精神的につらい時期が長く続くこともあります。東京みたいに、徒歩5分以内にコンビニが3つも4つもありませんし、カラオケボックスなんてありません。娯楽という娯楽はせいぜい小さな映画館かインターネットくらいしかありません。しかし、もし大学に行ってみたいと思うのであれば、なぜ行きたいのかを考えてみると良いかもしれません。純粋に楽しい4年間を過ごして、ある程度勉強して、そのまま就職するのが良いのか。それとも時には辛くとも、自分の今までの価値観がひっくり返るような経験を積んでみたいのか。僕は後者を選択できる環境にいるものは、そうする社会の一員としての責任さえあると思っています。皆さんはどう考えるでしょうか。

大都会の夜空を照らす何千何万という明かりが飛行機の窓から見えてきた。グリネルという、小さいけど強力で、不思議だけど明確な価値観に染まった世界から抜け出して、僕の夏休みが始まる。