専攻啓蒙家

会話P:

「専攻何にしようか悩んでるんだよね。」

「自分の好きな分野だったら何でもいいんじゃない?」

会話Q:

「〇〇専攻にすると卒業後仕事取りやすいし、収入いいって聞くから惹かれるんだよね。」

「自分が好きでもないのに〇〇専攻にしなくていいんじゃない?大学生活一回しかないんだから自分の好きな事勉強しなよ。」

2年生の終わりまで専攻を決めなくていいアメリカのリベラルアーツ大学に進学した留学生の皆さんが最初の2年間で少なくとも一回はするであろうこの会話。最近少し違和感を覚えています。

なんとなく「自分が好き」な学問分野が見つかった人は勝手にそちらに走って頂いて構わないと思います。僕の場合それは社会学にあたると思います。なんとなーく、日常のレベルで起こる問題(例えばアメリカの大学にいるのに留学生とばかりつるんでいる留学生たち)って意外に社会の構造(白人至上主義とか人種差別とか)が起こしているから問題を起こしている当事者たちが悪いわけじゃないんだよって、本来の責任の所在を明らかにしてくれるあたりが、優しい学問かよお前は〜!って感じがするのです。小学校で、いじめっ子A君をすぐに怒鳴りつけるんじゃなくて、A君のご両親が離婚危機に陥っていることを理解していて、まずはA君の精神的なケアから始めていこうとする、優しくて洞察力のある先生みたいな気がします。

でも、「好き」じゃなかったら専攻にするのはおかしいんでしょうか。仕事を取りやすいとか、収入を得やすいとか、きっと将来大事になるスキルや思考力、だと判断した結果、専攻にしてもいいんじゃないでしょうか。世間に必要とされるから取る行動って何がいけないんでしょうか。社会学では教育機関は「social mobility(社会的地位を向上させるための力)をアップさせる機関」という扱いをされることが多々あります。大学が義務教育でもないのに、多くの人が行こうとするのは、結局社会からの要求や当然の期待の一部に大学学位というのがあるからなのでしょう。そもそも自分の価値観に沿って「好き」なことを専攻にするべき、とかかっこいいこと言っているくせに、世間の期待に沿って大学に進学してきて学位を取得しようとしているのはどこのどいつなんだ、と言いたい。「人生一度しかないんだから自分の好きなことやりなさい」なんてのは聴こえはいいけど、行動に移せている人はほとんどいない。そんな人たちに他人を批判したり、啓蒙する資格はないのでは。みんな他人の人生に口出しする前に自分の人生どうにかしましょう。

結論:専攻なんてなんでもいいでしょう。よさそうと思ったらその日にdeclareするノリで決めよう。